NOVELS


雨 3 


 
※3

 翌朝。

 ロックオンを送り出したあと、表で傘を干していると、足元をすばやく走る黒い影があった。

「敵機接近! 敵機接近!」

 黒い弾丸のようなその気配に、ハロが反応する。

「大丈夫だよ。ハロ。あれは、燕。鳥だよ」

 湿った空気を切り裂くように飛んでいく姿の眼で追う。

「今日も雨が降るねえ。傘、干しても無駄になるかのう」

 モナミを連れたおじいさんが通りかかった。

「こんにちは。・・・今日の天気予報、雨でしたか?」

「いいや。燕が低く飛ぶと雨と言われておる」

 おじいさんは杖代わりの傘をかざしてみせると、小さな犬と歩いて行ってしまった。

「ロックオン・・・アメ・・・ロックオン・・・アメ!」

「大丈夫だよ。今日は折り畳み傘持って行ったから」

「気がきくな、アレルヤ」って誉めてもらえるかもしれない、と僕はにやにやしてしまう。ハロは、

安心したのか目をチカチカすると、スリープモードになってしまった。

 ロックオンがハロを連れてきたのは、トレミーを介さないで通信するためらしかった。

 この間の夜、ロックオンが通信していた人は誰なのか、ハロを検索したら分かるかもしれないと思

ったが、止めておいた。僕が詳細を知らされていないだけで、ヴェーダはこのミッションを承認して

いる。ソレスタルビーイングの仕事であることは確かなのだ。ロックオンの様子から、人探しのよう

で、暗殺や狙撃でないだけ僕は気が楽だった。

 本格的に武力介入が始まる前の静かな一時を僕にくれたことに感謝していた。

 僕の知らないもの。地上の幸せ。普通の生活。家族。

 夫婦は家族だろう。守秘義務があって、僕はロックオンに個人的なことを話したことはなかったけ

れど、彼は僕が家族を知らないことに気がついていたのだろう。

 こうやって、彼は、僕の欲しいものを、惜しげもなくくれる。これが「愛」というものなのか。そ

れならば、僕も彼が望むものなら、なんでも差し出すつもりだ。

 もっとも、僕は、僕自身のほかに何も持っていないけれど。

 小学校低学年の子供たちが、下校していくのだろう。スズメのさえずりのような声がする。

 ニール・ディランディには、兄弟がいるだろうか。彼に兄がいれば僕にも兄が、弟がいれば弟

が、妹がいれば妹ができたことになる。それは、心躍ることだが、彼らにとってはどうなんだろう。

自分の兄弟が同性と、しかも未成年と結婚しただなんてどう思うだろう。

 役所で結婚届を提出した時、僕が未成年なので、窓口の担当者は不審そうな顔をした。書類には、

あらかじめ親権者の許可書が添付されていたから、問題はなかったのだが、担当者の不躾な視線に僕

は赤くなった。ロックオンは、気にせずに手続きが終わるまで、僕の手を握ってくれていた。
 


 夕方になって、雨が降り出した。僕は、フリルのエプロンをして夕食の用意をしていた。今日は彼

の好きなアイリッシュシチューだ。少しだけどお肉も用意した。昨日、特売だった黒毛和牛のロース

を網焼きにするつもりだ。付け合わせはマッシュポテトとホースラディシュ、特製のサラダ。ドレッ

シングのレシピはロックオンが教えてくれた。

 ロックオンが、帰ってきたらすぐに食卓にサービスできるように、僕は外に注意をむけていた。

 ここは閑静な住宅街だから、人が歩いてくる気配が分かる。特に雨の日は。

 足音と傘をたたく雨の音に耳をすませた。こちらに向かって歩いてくる人が2人。ロックオンではな

いと分かって僕は、緊張を解く。とりあえずギネスを冷蔵庫に入れ、食卓の準備をする。

 お揃いのランチョンマットを敷き、花を生けた。紫陽花と言う花で、いくつもの小さな花をたくさ

んつけている。薄い紫とピンクのグラデーションが美しい。隣のおじいさんがくれたのだ。

 燕が低く飛ぶと、雨で、その頃には田植えがあって、終わると梅雨が来て、それから夏になると話

してくれた。地上で生活したことのない僕には、なんのことだかさっぱりわからなかったけれど、時

とともに移ろう季節に憧れた。ゆっくりとその時間を過ごすことができたらいい。

 ソレスタルビーイングの仕事が終わったら、ふたりで、それぞれの故郷に行こう。まず、彼の故

郷に行き、それから僕の故郷を探す旅に出るのはどうだろうか。

 緑の田園を歩き、月の光の下に佇み、薔薇や紫陽花の花を眺めたり、遠くまで渡っていく燕を追い

かけたりして暮らすのだ。

 それは、僕の夢だ。

 実現しそうで実現しない幻想。

 人でなしの僕を、家族と認められるはずがない。どこの誰ともわからない、できそこないの、僕。

 世界を変えることができたら、彼は、家族の元へ、元いた日常へ帰っていくんじゃないだろうか。

 僕は、エプロンのフリルを直した。

 僕は廊下をゆっくりと歩いて行き、上がり框の前で止まった。

 玄関の外で話し声がした。

『上がっていかねえのか。プリン、お前の分も買ったんだぞ』

『甘いもんは食わねえし、あんたの私生活に興味はねえよ』

『可愛い嫁の顔くらい見ていけよ』

『俺はあんたのそういう所が嫌いだ。いかにも自分は大丈夫ってふりをするところが・・・』

 男がふたり、玄関の生垣の外で話している。一人はロックオン。もうひとりは、よく似た声をして

いる。その人は傘をさしているらしく、少し声が籠った感じに聞こえた。

『兄さん。俺があんたのことを信用してるなんて思わないでくれ。あんたは、いったい何をしてい

る』

『俺は、ふつうの会社員さ』

『嘘つくなよ。わざとらしく、こんなところに家を借り、婚姻届を出したりして、幸せなサラリーマ

ンを演出しているつもりだろうが、騙されねえ。・・・あんたが仕送りしてくれたことには、感謝し

ている。お蔭で生活に不自由することなく、大学を出ることが出来た』

『それは、お前が努力した結果でもあるだろ』

『その裏で、兄さんは何をしていたんだ? いや、今だって何をしているんだ?』

『興味があるのか?』

 沈黙があって、傘を叩く雨の音が強くなった。カチン、と音がして息をついた気配がしたのは、相

手が煙草に火をつけたのだろう。

『ねえよ』

 その声には怒りと哀しみが混じっていた。雨の粒が跳ね返って、革の靴に当たる音がする。

 ロックオンは、スーツだけれど、相手の人はコートを着てブーツをはいているようだった。サージ

のような厚手の繊維の衣ずれがした。

『兄さんだって、本気で俺を誘っているわけじゃねえだろ。・・・でなきゃ、こんなにあからさまに

俺の身辺を嗅ぎまわったりしない。今まで、俺がどんなに消息を知ろうとしても分からなかったの

に、いきなり姿を現して、しかも新婚だなんて、ふざけんな』

『ライル・・・俺はお前に、平穏な生活を送ってほしいんだ』

『言われなくても、俺は俺の道を行く。あんたとは違う幸せを見つけるさ。それが、平穏かどうか

は、あんたに関係ないだろ。結婚したんなら、俺よりそいつのことを幸せにしてやれよ』

 相手の口調は鋭かったが声は低く、おそらく周囲には聞こえていないだろう。超兵の聴覚だから、

屋内にいても聞こえるのだ。

 ロックオンは、沈黙している。雨が彼のスーツと紙袋を叩いている。

 ふうっと相手の男が煙草の煙を吐いた。

『あんたはあんたの幸せを見つけてくれ』

『ライル・・・』

『元気でな。兄さん』

 吸殻が水に消える音がして、ラバーソウルの靴音と傘にあたる雨の音が遠ざかって行った。

 僕は、玄関の戸が開くのを待った。

 ロックオンは、玄関先に佇み、中に入ってこない。そのまま、行ってしまうのではないかと僕は心

配になる。彼は、傘を持っているはずなのに差さずに濡れて帰ってきた。連れの人の傘に一緒に入っ

てきたのかもしれない。

 一つの傘を分けあうほど、親しい人。

 遠ざかって行く人の気配が途中で止まった。それは脳量子波を使ってやっと感知できる程度の気配

だ。

 玄関先に佇む人をうつ雨の音と、少し離れたところで立ち止まっている傘を叩く雨の音の両方に耳

をすませた。今、追いかけたら、追いつく距離だ。

 戸を開けて、その人を追いかけるように言うべきだろうか。ロックオンにそう言ったら、彼はあの

人を追いかけるだろうか。

 追って行ったら、彼は戻ってくるだろうか。

 今ならまだ、間に合うんじゃないだろうか。


 
 ロックオンは静かにガラス戸を引きあけて、ゆっくりと踏みこんだ。雨にぐっしょりと濡れて、髪

から滴を滴らせている。鞄もしっとりと雨を含み、彼が抱えている紙袋は色が変わっていた。

「雨にさ・・・降られちまった」

 お帰りっていうつもりだったのに、僕の声は咽喉の奥にからまって出てこなかった。僕はたたきに

降りて、彼の肩を抱いた。

「濡れるぞ」

 白いエプロンのフリルが、雨を吸って暗い色に染まっていく。ロックオンの身体がぐらりと揺れ

た。冷たい彼の身体に回した腕に僕は力をこめる。 ロックオンのスーツから、かすかに煙草の匂い

がした。紙袋が裂けて、中の物が転がり落ちた。カチ、カチ、カチンと硬質な音がして、カスタード

の甘い香りが立つ。落ちた瓶は3つとも割れて、とろりとした中身が床に零れた。

「アレルヤ。お前、裸足だ」

 ロックオンは、僕を押しのけるようにして、靴を脱いだ。先に廊下にあがり、僕を抱き寄せた。

 温かい彼の鼓動が、エプロンの薄い布地を通じて伝わってくる。僕はなんだかほっとした。

「・・・おや。どうして泣いてる?」

 僕はただ、首を横に振る。大きな手が僕の頭を撫でてくれる。

「俺がいないと寂しい? キスが待ちきれない?」

 ロックオンはちゅっと小さな音をさせて、ついばむようにキスをして、長い腕にゆったりと僕を抱

き、子供をあやすように揺らした。それでも、僕の涙は止まらない。俯いてエプロンの皺を伸ばすふ

りをする。

「・・・ねえ。ロックオン。僕は、待ってるよ。あなたが帰ってくるのを、いつだって待ってる」

「ありがとさん」

 顔を上げると、翡翠の瞳が細められていて、ロックオンは嬉しそうに笑った。

「だって、僕は、あなたの・・・妻だもの」

「はいはい。なんだか、今日のアレルヤはサービス満点だな」

 ロックオンは、僕の腰を押すようにして廊下を歩き、ダイニングに通じるドアを開けた。

「俺はいつだってお前の所に帰ってくるよ。帰って来て言うんだ。『ただいま』って。そうすると、

お前さんが言う。『お帰り。ご飯にする? お風呂にする? それとも僕?』」

「お帰り。ロックオン・・・ニール」

 僕は、彼の首にすがりつく。

「ただいま。アレルヤ・・・」

 僕の夫はそう言うと、後ろ手にドアを閉めた。




                                       了 2012/6/19