NOVELS


堕天使の楽園 1


 プトレマイオス2は、ラグランジュ1で、次のミッションに備え調整を行っていた。
 
 それは、物資・設備ばかりでなく、人材においてもそうだった。

 第二格納庫、GN―006<ケルディム>のコックピット。 
 
 モニターが明滅すると、いきなり照明が落ちた。
 
『シミュレーション終了。達成率70%』

 一呼吸して復活したモニターの文字を見て、ライル・ディランディは溜息をついた。ヘルメットを脱

ぎ、汗に蒸れた髪に手をやる。着慣れないパイロットスーツに、肩が凝っていた。

 プトレマイオスに来てから、ケルディムでの射撃訓練が、彼の日常のほとんどを占めていた。教官役

のティエリアの冷たい指導と思うように上がらない達成率に、正直辟易していた。

 内緒にしてはいるが、モビルスーツに搭乗するのは初めてではない。カタロンではそれなりの成果を

上げていた。しかし、ガンダムという機体は特別だし、なにより目標設定が高いのが問題だった。

 コードネーム<ロックオン・ストラトス>に期待される数値は、「それなり」では、こなすことのでき

るものではなかった。

「ロックオン、オツカレ。オツカレ」
 
 オレンジ色のAIが、労いの言葉をかけてくれる。

「ハロも、ごくろうさん」
 
 連日の訓練に文句も言わず付き合ってくれるAIをポンと叩くと、ライルはコクピットを降りた。
 
 ハンガーには、ケルディムのほかにアリオスと呼ばれるガンダムが収容されているが、その機体のマ

イスターの名を、ライルまだ知らなかった。

 一息入れようと足を運んだ食堂は、閑散としていた。

 クーラーの前に、スメラギ・李・ノリエガがいた。
 
 グリニッジ標準時では、まだ夕食には早い時間だったが、彼女が手にしているのはビールだった。一

緒にここへ来たというのに、顔を見たのは久しぶりのような気がする。

 声をかけたものか、考えていると向こうから挨拶してきた。

「お疲れ様。もう慣れた?」

 躊躇せずに、ビールを差し出してくるので、そのまま受け取った。
 
 会社勤めをしていた頃は、帰宅途中に同僚とパブで一杯飲むのが習慣だった。お気に入りはギネスだ

が、ここではそんな贅沢も言えない。

 素直に受け取った。

 「かわいい教官殿は顔に似合わずきついし、微重力っていうのには慣れてないし、大変だよ」

 ビールで喉を潤し、煙草を出そうとして、食堂が禁煙であることを思い出した。

 窮屈なことだ。ライルは眉を寄せた。それには、全く気付かない様子でスメラギは続けた。

「微重力には私も、最初の頃は戸惑ったわ。筋力が落ちないようにトレーニングしたりしたものよ。テ

ィエリアは、まあ、あんなものね。だいぶ、柔らかくなったと思ったんだけど、あなたには厳しいみた

い。彼になんかした?」
 
 明るい巻き髪に、指をからませ、なんでもないようにそう言った。
 
「なにもしませんよ。どうやら、この顔がお気に召さないらしい」

 ろくに部屋から出てこないくせに、よく見ている、とライルは苦く笑った。自分といくつも違わない

彼女が、ソレスタルビーイングの戦術予報士で、トレミーの艦長を務めていたことを思い出した。

 帰還した時、小型艇で短時間のうちに戦術プランを立て、アロウズを撃退したことを思い出す。あの

時も彼女は酔っていたが、まるで、息をするように自然にそれをやってのけた。

 ソレスタルビーイングを利用するつもりで来たのだが、メンバーとして、認められるためのハードル

が意外と高いことに、ライルは気が付いていた。
 
 ビールを飲む。炭酸が喉を焼くのが気持ちよかった。

「ここは、不思議な組織だよな。リーダーらしい人間はいないのに、それなりに運営されてる」

 ブリーフィング、ガンダムを使用するシミュレーション、機体テストなど決められたカリキュラムは

盛りだくさんだが、食事、その他の行動に制限はない。各自、それぞれのスケジュールで動いている。

クルーの人数が少ないせいか、全員が顔を合わせて食事をすることなどはないようだった。

「これだけのスペースシップなのに、艦長とかいねえの? みんな勝手にやってるみたいだし、資金と

か、どうなってんの?」
 
 カタロンのスパイとして来た以上、できるだけ情報は集めておきたかった。ソレスタルビーイングが

カタロンのパートナーとしてふさわしいのか見極めるのも、ジーン1、ライルの仕事のうちだ。
 
 ライルは、なんとなくソレスタルビーイングにPMCのような軍事組織をイメージしていて、武力介

入を金で請け負う傭兵部隊くらいに思っていたのだが、実際はかなり異なっていた。
 
 まず、艦長がいない。副官のような人物もいない。全体に若い人間が多く、戦術予報士が艦長を兼任

していたと知って、ライルは驚いていた。ヴェーダのバックアップがあったとはいえ、イオリア・シュ

ヘンベルクからのトップ・ダウン方式であれだけの成果をあげたことに、組織の優秀さ、構成するメン

バーの能力の高さ、スメラギ・李・ノリエガの管理能力の高さが表れていた。

 そして、ラグランジュ1をはじめとする基地の充実度。カタロンとは格が違う。それを支えている資

金源にライルは興味を持っていた。イオリア・シュヘンベルクの私設組織といっても、本人が故人であ

る以上、資金運営を司っている部門があるに違いない。元商社マンらしく、金と物資の流れにライルは

敏感だった。

「刹那から、高給をオファーされて転職してきたんだ。ボーナス期待してるぜ」

「呆れた。ここでそんなことを期待しているのは、あなただけよ」

「そうかい。給料分の仕事はするつもりだ。俺の上司はアンタってことでいいのか。まさか、ティエリ

ア?」

「そうかもね。たしかに今はリーダー不在っていう感じね」

 ライルの軽口に、スメラギは笑った。笑うと、目元に愛嬌が生まれ、年相応に見えた。現役だった4

年前はもっと、今のライルより若かったはずだ。酒に荒れた肌、疲れた顔。優秀なだけに、4年前の挫

折は痛手だったにちがいない。ライルは過酷な戦いの日々は、彼女にとって終わっていたのか疑問に思

った。

 スメラギは、それ以上は語る気はないようだった。飲みかけのビールを飲み干すと、また、新しいも

のを開ける。まるで、水でも飲んでいるような飲みっぷりに、ライルは呆れた。注意しようかとも思っ

たが、まだ、自分はゲストの立場のような気がして、見て見ぬふりをした。

 他の話題を探す。宇宙では、天気の話は無意味だし、シミュレーションの結果など口にしたくもなか

った。それで、あまりいい話題とは思わなかったが、気になっていることを尋ねた。

「なあ、スメラギさん。・・・ここで兄さんが、一番親しくしていたのって誰なんです?」

 はっとしたように、茶色の瞳が見開かれた。ゆっくりと、視線がライルを捕える。彼女が兄の面影を

探し、見つけ、違いを認識したとわかるまで、ライルはスメラギを見つめた。

 それまで冷静だった彼女が明らかに動揺したので、ひょっとして、スメラギがその人なのかと、ライ

ルは思った。美人で頭がいい。そのうえ、年上だ。ニールは、年上の女性が好みだったし、人気もあっ

た。返事をかわされるかと思ったが、スメラギは視線を外すとゆっくりと言った。

「アレルヤ・ハプティズム・・・ね」

「アレルヤ? 誰それ?」

 刹那から受け取った資料に、名前を見た気がしたが、トレミーの乗員にその名はなかった。

「もう一人のガンダムマイスター」

 そういえば、ガンダムは4機あるはずだ。自分を含めてマイスターは3人で、もう一人はラッセだと

思っていた。

「そいつは、今どこに」

 行方不明なの、そう言ってスメラギは寂しそうに口元を歪めた。

 その様子から、アレルヤもニール同様、4年前の戦闘で死んだのかもしれないと思った。

 「足りないものばかりなんだな、ここは」

 そうね、と言ってスメラギはビールの容器を指先で弄んでいる。

 スメラギが、本格復帰をしようとしないのは、そいつのせいなのかもしれない、とふと思った。

 艦長でもない、司令官でもない、一戦術予報士に課せられた責任は、肩書に比して重いものだったの

だろう。おそらくスメラギは、責任感が強く、人情家なのだ。だから、前へ踏み出せなくなっている。

 会社で、優秀と言われる女性たちを支えているのは、多くの場合プライドだ。それがただ一度の失敗

で、脆くも崩れ、立ち直れなくなってしまい、潰れていく。ライルは、何人かの女性の顔を思い浮かべ

た。みんな、今のスメラギと似た表情をしていた。

 しかし、そこから這い上がってくる人もいた。ライルの上司は、その一人だった。一流大学出のエリ

ート、才媛と謳われ社内きっての理論派だった。それが、プロジェクトが失敗するとすべての責任を負
 
 わされて、地方に左遷された。ライルが入社する前の話だ。

 十年かけて本社に戻ってきたその人は、地味な中年女性で、不良社員の集まりと呼ばれていたライル

 の課を、いつの間にか採算のとれる部署にしてしまった。特別なことは何もしない、ただ、課員のモ

チベーションを上げ、最後まで諦めないことを唱え続けた。無理と思う計画でも彼女の指示に従えば遂

行できた。成功経験は課員に自信を植え付け、意識を改革していった。
 
 彼女は粘り強く、笑顔の裏で、戦略をねり、根回しを怠らなかった。時にはえげつないことも平気で

する神経の図太さに感心することもあった。

「責任は私がとります」

 その言葉の重さを分かっている人だった。

 ライルが退職する頃、その人も異動になった。成果を認められて新規プロジェクトに参加することに

なったのだ。送別会で見た彼女は生き生きして、美しかった。

 ふと、スメラギのスーツに目が行く。薄いパープルのシャツから豊満な胸元が覗いている。

 来てそうそう、セクハラ容疑は困るので、すぐに視線を外した。

「なあ、あんたはどうして制服を着ないんだ」

 スメラギは、容器から視線を移すと、思いのほかしっかりとした眼差しでライルを見つめた。頭の芯

まで酒浸りというわけではないようだった。

「私がその制服を着るには、それなりの覚悟が必要なのよ」

 苦く笑うスメラギを見て、ライルはその人を思い出した。スメラギは、再び戦うことを選ぶだろう
 
か。選ぶ気がした。あの、小型艇での采配が思い浮かぶ。あの時、彼女は生気を取り戻した花のよう

だった。その時がくれば、彼女は選ぶだろう。
 
 どこにでもいるんだな、こういう人が。ライルは、軽く息をついた。

 美人で仕事のできる上司には逆らわない。そして、なるべく近寄らない。それが、ライルの処世術

だった。

 窮屈なことだ。

 話し相手一人見つからない。部屋に戻ってハロとでも遊ぶか。

 ビールをあおる。微重力では、アルコールの回りが早い。疲れた体が重くなった気がした。

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>了  2009/5/10

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