NOVELS


堕天使の楽園 3



「よろしいでしょうか。スメラギ・李・ノリエガ」
 
 夜半過ぎ、一人で酒杯を傾けるスメラギの部屋を訪れたのは、マリー・パーファシーだった。
 
 銀の髪に透けるように白い肌。均整のとれた肢体は人形のようだ。超兵として訓練されてきた彼女

は、感情を表に出すことはまれだったが、今は泣き出しそうな顔でたたずんでいた。

「どうしたの? アレルヤと喧嘩でもした?」
 
 わざと軽く問いかけると、マリーは静かに首を横にふった。

「私でよければ話を聞くから、まあ、入って」

 スメラギは、ソレスタルビーイングの戦術予報士であり、トレミーではクルーの保護者的役割を担

っているから、皆が様々な相談をしにこの部屋を訪れる。突然の来訪者は珍しいことではなかった。
 
 部屋に足を踏み入れたものの、立ちつくしているマリーの肩に触れると座るように促した。
 
 触れた相手の体温の低さに驚く。トレミーの内部は、完全に空調がきいているから、体が冷えるよ

うなことはないはずだ。ガンダムのハンガーにでもいたのだろうか。ゲストである彼女が、こんな就寝

時間内に格納庫に行く必要はない。アレルヤと喧嘩したのか、という疑問はあながち外れてはいないの

かもしれないと思った。

 トレミー内の私室はどれも同じような作りで、大きなモニターのほかにはベッドと簡単な収納がある

だけだ。スメラギの部屋にしかないものと言えば、酒瓶が並ぶワゴンと小さな冷蔵庫くらいだ。

 マリーは酒瓶の前の椅子には座らず、ベッドの端に腰をかけた。

「コーヒー? それとも紅茶? ごめんね、ミルクはないの。あとはお酒だけ」

「ウォッカを・・・。ロックで」

「あらあら。いける口とは知らなかったわ。でもね、強すぎるお酒は体に毒よ。グレープフルーツで割
 
ってあげる」
 
 以前より減ったとはいえ、ワゴンには強い酒ばかりが並んでいた。スメラギは、グラスにクラッシュ

ドアイスを放り込み、酒を注ぐと、果物籠からグレープフルーツを取り上げて半分に切り、手早く絞る

とマドラーで攪拌した。
 
 狭い室内に、グレープフルーツの酸味を含んだ香気が広がる。マリーは、グラスを受け取ると、一口

飲み、深く息をついた。
 
 スメラギは、スクリーンの前の椅子に座ると自分の酒を舐めた。

 五年前、アレルヤ・ハプティズムが、人革連の施設破壊ミッションを持って訪れた時のことを思い出

した。ミッション終了後のアレルヤと今のマリーの姿が重なる。彼は酒を望み、その苦さに顔を顰め

た。

 アレルヤとマリーは似ていると思う。超兵として強化されたのは、兵器として利用できる部分ばかり

で、人間らしい情緒などは放置され、未成熟なことこの上ない。情報伝達という意味ではアレルヤは完

璧だったが、感情表現が下手で、コミュニケーション力が足りなかった。

その彼が、恋をするほど情緒豊かになったのかと、その成長が驚きであり、嬉しくもあった。
 
 彼らはいろいろとあって結ばれたのだ。うまくいかないことがあって当然だと思う。一緒に暮らして

いても、互いを理解できずにいるカップルもいるのだ。ビリー・カタギリの顔が浮かんだ。

「私は、トレミーを降りようと思います」
 
 落ち着いた声だったが、マリーの横顔を見つめていると、口元に力が入るのがわかった。泣きそうに

なるのをこらえているのだろう。

「なぜ、今それを? 時期が来たらあなたをトレミーから降ろすつもりよ。地上でアレルヤとゆっくり

するといいわ。新婚旅行とまではいかないかもしれないけど・・・」
 
 ひょっとして、マリッジブルーなのだろうか。超兵と呼ばれ、しっかりしているように見えても、中

身は女の子なのだと微笑ましくなった。

「アレルヤは」マリーは言いかけて、ためらったが、もう一口酒を飲むと続けた。

「アレルヤとは、そういう関係ではありません。彼の心は別の人を追っている・・・」
 
 美しい金色の瞳から、大粒の涙が零れ、頬を伝った滴が、はたはたとグラスの中に落ちた。

「マリー。どうしたの、いったい」

 スメラギは、マリーの隣に座ると肩を抱いた。学生時代、よくこうして友人の恋の悩みを聞いたもの

だ。こうした話の半分が惚気で半分が失恋に終わった。

 アレルヤは、戦術を無視し、それこそ命がけで彼女を取り戻したのだ。出撃前、同じこの部屋で、彼

の宣言を聞いていただけに、スメラギにはマリーの言葉が、可愛らしい悩みにしか聞こえなかった。
 
 やはり、普通でない環境で育ってきた彼らは、恋愛の仕方を知らないのだ。ちょっとしたことを誤解

しているだけではないだろうか。
 
 この年頃の男ときたらまだまだ子供で、恋人はただ、自分の側にいれば幸せだと思っている。そし

て、自分は好き勝手な夢を描いて飛んで行ってしまう。二人でいることで、すべてを完結しようとする

が、実際にはそうはいかない。その点、女性のほうが現実的だから、将来が不安になる。
 
 特にガンダムマイスターなど、一時間後の生命も保証されていないのだ。「彼女を幸せに」という約

束のどこに信憑性があるというのか。アレルヤの気持ちを疑うわけではないが、不安に思って当然だ。
 
 誰かに話せば、気持ちも軽くなるだろう。スメラギは、マリーが落ち着くのを待った。
 
 泣きやんだマリーは、整然と話し始めた。


 アレルヤは、優しかった。トレミー中を駆け回り、彼女に必要なものを整えてくれた。彼女に与えら

れた個室が使えるようになると、そこに来ていろいろな話をした。互いを求めるのは当然のことに思わ

れたので、その時に、特に抗うようなことはしなかった。ただ、問題だったのは、アレルヤが男として

の役割を果たせなかったことだ。これは、彼には相当なショックだったようで、それ以来部屋に来なく

なった。

 人前では、アレルヤは穏やかな笑顔と優しい態度を崩さなかったが、素直な感情を見せることがなく

なった。それとなく側に寄り添うと、拒絶こそしないものの、困惑した意識が流れ出てくるのを、マリ

ーは寂しく受け止めるしかなかった。
 
 そのうちアレルヤが夜眠っていないことに気がついた。誰かと会っているのかと思ったが、そうでは

ない。ただ、展望室、資料室、ハンガーと幽霊のように渡り歩く。マリーは、そっとそのあとをついて

歩いた。そうすれば、彼の考えていることが理解できるかもしれないと思ったからだ。

 アレルヤは、誰かを探しているようだった。真夜中の展望室で、虚空に腕を伸ばして涙するアレルヤ

を見て、マリーは確信した。彼には本当に取り戻したい人が他にいるのだと。

 アレルヤは、守るべきもの、幼い頃の思い出の一部として彼女を取り戻したかったのだ。それは、家

族に対する愛のようなもの、神聖なものに対する憧れのようなもので、恋愛とは異なる。彼が本当に求

めている人間は他にいるのだ。


 そこまで聞くと、スメラギには思い当たることがあった。
 
 凄惨な戦いの日々のなかでのささやかな息抜き。天使達の戯れ。そう思っていたことが、アレルヤを

縛っているとでもいうのだろうか。

(ロックオン・・・あなたの存在はまだこんなにも大きいの?)

 ロックオン・ストラトス。ニール・ディランディ

 四年前の戦闘に散ったガンダムマイスター。同じ顔の弟がコードネームを引き継いでも、彼の代わり

は務まらない。

 そんなことはわかっていた。


「とにかく、あなたはゆっくり休みなさい。こんなに体を冷やしてはだめよ。アレルヤにはそれとなく

聞いてみるから」

 マリーは縋るようにスメラギを見上げた。

「アレルヤの負担になりたくありません。今の私は彼にとって必要なのか自信がない。・・・彼がどこ

か深い闇に沈んでいくのを、見ていることしかできないのが辛いのです」
 
 そう言って、マリーは退室していった。

「深い闇の底、ね・・・」
 
 スメラギは、モニターに映る漆黒の宇宙を、いつまでも眺めていた。



 ソレスタルビーイングのメンバーは軍人ではない。戦争の根絶という大義名分はあるものの、根底に

あるのは、戦争を憎む心と個人の意思だ。自らテロリストの道を選んだ。

「人を殺め続けた罰は、世界を変えてから受ける」
 
 ロックオンの言葉が、胸の底で響く。
 
 今日もハンガーにきてしまった。ここ数日、アレルヤは眠れないでいた。
 
 マリーを救出したことは、無上の喜びだった。本当に神に感謝した。間に合った。大切なものを手に

入れた。これで未来を守ることができる、と。
 
 しかし、その頂点を極めた時から、ずるずると引きずり落とされるような不安が、アレルヤを蝕み始

めた。自分でもわからない不安の正体に気がついたのは、マリーを抱こうとした夜だ。彼女の肌に触れ

ようとした時、頭の中にセルゲイ・スミルノフの声が響いた。

「彼女を争いに巻き込むな。君たちのおかげで私は同朋や部下を失った。君たちの手は血で汚れてい

る」

 アレルヤは、自分の手を見た。マリーは彼の守りたいもの、大切な未来の象徴だ。それに触れよう

としているこの手は、それにふさわしいのか。
 
 自分は未来を望んでいいのか、その資格があるのか。
 
 恐れる気持ちが湧きあがってきて、体中の血が冷えていった。
 
 許されるはずがなかった。マリーからどんな祝福を受けようと、過去は変えられない。今ここで彼

女を抱けば、アレルヤの運命に巻き込むことになる。血塗られた運命に。

「僕は君に触れてはいけないんだ。大切な明日に」
 
 そう言って、アレルヤはマリーから離れた。
 
 マリーはアレルヤの未来への希望だ。彼女の歩く道を守るために命をかけて戦う。そう決心した。

 しかし、その道を共に歩むことはできない。その資格はとうに捨ててしまった。その選択に後悔は

ない。そうしなければ、再び彼女と出会えなかった。救い出すこともできなかった。

「僕は正しいことをしたんだ」

 戸惑っているマリーを一人残して、アレルヤは部屋を出たのだ。

 超兵としての戦闘能力を未だ取り戻せないのは、監禁生活の影響と、ハレルヤを失い、脳量子波が

使えなくなったためばかりではない。

(僕は、また迷っている)
 
 アレルヤは、ひっそりと佇むアリオス・ガンダムの威容に一人呟いた。


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2009/6/16

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