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FIRST LESSON



 シミュレーションのサポートをしてもらおうと、ハンガーにハロを迎えに来たロックオンは、人気の

ない待機室で、ひとり本を読んでいるアレルヤを見つけた。

(今どき、紙媒体ね。意外とアナログなんだな)

「熱心だねぇ。何を読んでるんだ? アレルヤ」

 ハロを小脇に抱え、声をかけながら近づいた。人の気配に聡いアレルヤに気を使わせないための配慮

なのだが、目的はもう一つある。

「ロックオン・・・」
 
 伏せられていた銀灰の瞳が嬉しそうに見開かれて、口元が緩む。もとがきつい表情なだけに、その一

瞬の変化が小さな花の蕾がほころぶようで、それが見たくて、その名を呼んでしまうのだ。
 
 自分とほぼ互角の体格をした男性の笑顔が「花のよう」というのは、酔狂だと思う。

 アレルヤを見ていると、昔、東京で見た花を思い出す。

 それは梅という花で、春とは名ばかりの鉛色の冬空の下、どの木よりも早く堅い枝の先に可憐な蕾を

つける。白い小さな花は強い芳香を放ち、人々に春の到来を告げるのだ。触れればぽろりと落ちてしま

うほど脆いのに、その姿は凛としていた。

 原産地は中国だというそのエキゾティックな花は、ロックオンの記憶に鮮明に残っていて、いつも静

かに佇むアレルヤのイメージと重なるのだ。

 手を伸ばして本を取り上げた。アレルヤは、あわてて取り返そうとしたが、もう遅い。

「詩集?」

「ここの図書室には文学系のものは少ないので・・・」

 アレルヤは、耳まで赤くなって消え入りそうな声を出した。それは恋愛詩集で、フェルトくらいの少

女が読みそうな甘い内容だった。もっともトレミーの女性陣が読むのは、専門書かブランド物を特集し

た女性誌ばかりで、それもネットで配信されるものだ。

 アレルヤは、姿に似合わぬ少女趣味を知られたのが恥ずかしいのか、俯いたまま椅子の座面を握りし

めている。

 人並み外れた反射神経の持ち主の隙をつくつもりが、すっかり苛めているような雰囲気になってしま

った。赤くなった顔を覗きこんでやりたくなるのを我慢して、本を閉じ、アレルヤに返してやる。

「お前さんが、文学に興味があるとは知らなかったな」

「僕には情緒が欠けているようで、人の気持ちがよく分からないのです。友情とか恋とか愛とか」
 
 そう言われれば、思い当たる節がある。アレルヤの天然ぶりは、クリスやリヒティのからかいの種な

のだが、周囲からはおおむね好意をもって受け入れられていた。それを、本人がこんな形で気にしてい

るとは思わなくて、ロックオンは思わず笑ってしまった。

「軽い読み物でよければ、俺の部屋にも何冊かあるぜ。よかったら貸してやるよ。俺でよければ、そ

の、いろいろ教えてやってもいいし・・・」

 栗色の髪をかきあげならそう言うと、ハロが、

「アレルヤ、ベンキョウ! ロックオン ト ベンキョウ!」

と甲高い声をあげた。

「ほんとうですか。ありがとうございます」

 精悍さが消え、子供のような満面の笑顔だ。こんな些細な約束には過ぎた反応がくすぐったくて、ロ

ックオンの頬まで緩んでしまう。

(勉強熱心なのはいいことだけど、恋愛なんてもの、本読んだって解らないぜ)
 
 本当はそう言いたかったが、また、困らせてしまいそうなので止めた。それに、この小さな誤解を解

くのがもったいない気もしたのだ。



 
 待機室でのやり取りの後、アレルヤは、目に見えて態度が柔らかくなった。

 ロックオンの部屋に来て、小説や写真集などを喜んで借りていく。
 
 感想を聞くと、的確な意見が返ってくる。頭のいい奴だなと思う反面、そこに欠落している感覚が見

え隠れするのに気がついた。
 
 クリスマスイブのわくわくした思い、その年初めての雪に足跡をつけた時の後ろめたいような、満足

なようなドキドキした気持ち、初めてつないだ女の子の掌の柔らかさ、抱き上げた子犬の温もり、雨上

がりの森の湿った土の匂いなど、誰もが体験していそうなことを彼は知らなかった。特に、匂いや肌ざ

わりなどが苦手で、これでは本など読んでも半分も理解できないだろうと思った。

 未成年なのにCBなどに参加しているのだ。普通の生い立ちではないことは察しがつく。自分だって似

たようなものだ。ただ、アレルヤのいつも人から距離をおく態度や、控え目な笑顔、そして極度に緊張

した時の殺気を思うと、どれだけの修羅場を経験してきたのかと勘ぐらずにはいられない。

 凍てついた枝先の氷を払うように、アレルヤに温もりのある感情を教えたい。春まだ浅い寒気の中で

咲いた花のような彼を守ってやりたくなっていたのだ。

「ねえ、ロックオン。この主人公は、雨の中で、口を開いて舌を出すんだけど、そんなに喉が渇いてい

たの? それとも雨って味があるのかい?」
 
 この手の唐突で不可思議な質問に、最初は戸惑ったが、できるだけ丁寧に答えてやることにしてい

る。アレルヤは優秀な生徒だし、堂々と兄貴面できるのは楽しい。

 そして何より、アレルヤが己に欠落するものを埋めようと必死になっているのを見過ごすことができ

なかった。
 
 この間の休暇の土産に何冊か買ってきた本のなかに詩集があった。甘い恋の詩が多く、ロックオンの

好みではなかったが、アレルヤは気に入ったようだった。

 ロックオンが、シミュレーションのレポートを書く間、アレルヤはベッドの端に座っておとなしく待

っていたが、終わるのを見計らって、質問してきた。
 
 アレルヤは、こうしたロックオンの間を読むのがうまい。邪魔をするわけでなく、離れ過ぎることも

なく適度な距離を保っている。それはロックオンにとって負担にならない、心地の良い距離ではある

が、少し物足りなく思うこともあった。
 
 ロックオンはアレルヤの手から本を取り上げ、件の詩を読んだ。
 
 アレルヤは、立ち上がって緑茶を淹れ始めた。紅茶やコーヒーよりビタミンが豊富なのだと言って、

アレルヤが持参したものだ。部屋のなかに枯れた草の甘い香が広がる。

「この雨っていうのは好きな女の子のことなんだ。比喩だな。唇で触れるだけでなく、舌で味わい、飲

み込んで体の一部にしてしまいたいっていう意味さ」

「食人願望?」
 
 アレルヤは眉をひそめ、ロックオンは吹き出した。

「違うだろ。恋の詩にそんなものを読み取るのは、お前さんだけだよ、アレルヤ」

「じゃ、なんですか」
 
 アレルヤは、不服そうに唇を尖らせた。

「ほんとうにわかんねぇ?」
 
 カップを受け取り、アレルヤと並んでベッドに座る。一口飲むと、口の中に幽かな渋みと甘い草の香

りが広がった

 手を伸ばせば、すっぽりと抱きしめてしまうことができるほど近いのに、アレルヤはまるで警戒す

る様子はない。熱い茶に息を吹きかけながら、幼い子供のように答えを待っている。口元に浮かんだ

微笑みに、ロックオンは溜息をつきたくなった。

「キスだよ」
 
 照れ臭くて、不機嫌になったロックオンの態度にアレルヤが不思議そうに首を傾げる。

「キスですか」

「お前さんだってしたことあるだろう、キスくらい」

「もちろん、ありますよ」
 
 アレルヤは拗ねたように反論したが、怪しいものだ。その証拠に考えこんでしまった。アレルヤは、

見た目よりずっと子供で、こうしたことの経験値が低いのだ。

(こういうのは、考えても分からないと思うぞ)
 
 薄い唇から覗く白い歯が、ロックオンに、昔、東京で見た花を思い出させる。まだ、誰も手をつけた

ことのない花の枝を手折ってみたい。馥郁とした花の香を楽しんでみたい。しっとりと濡れた花びらを

味わってみたい。

 視線がアレルヤの唇に固定されてしまった。

「アレルヤ、知りたい?」
 
 そう言った時には、手が出ていた。
 
 俯き加減の顎の下に指をかけて仰向かせ、少し開いた唇に自分の唇を押しあてた。
 
 銀灰の瞳が一瞬見開かれ、体に力が入るのを感じたけれど、構わずにそっと舌先で下唇をなぞっ

た。怖がらせないようにゆるく吸ってやる。角度を変え、ゆっくりと柔らかい襞を舐めた。乾いて

いた唇が潤う。
 
 アレルヤはおとなしくロックオンの腕の中におさまっていた。抵抗されたら止めるつもりだった。

 軽い冗談にするつもりだったのに、後戻りできない。
 
 柔らかい唇の隙間からそっと舌を差し入れると、誘われるままにアレルヤは舌をからめてきた。

「んっ」
 
 アレルヤの喉がこくりと鳴った。草の香と体臭が鼻先を掠める。その匂いに興奮した。体中の血が

熱くなるような感じは久しぶりだ。
 
 伏せられた長い睫毛を眺めながら、そっと背に手を回す。逃げられないように顎をとらえた指に少

し力を加えると、そのまま口付けを深くした。戸惑っている舌を追いかけて、強く吸い上げる。くち

ゅ、と互いの舌が音をたてた。
 
 アレルヤの胸が大きく上下して、目元が薄紅にそまる。それにもそそられて、ロックオンは、柔ら

かい口腔の粘膜を舌で弄んだ。
 
 ロックオンの肩先を掴んだアレルヤの指に力が入った。

「もう・・・これ以上は、無理」
 
 ゆっくりとキスを解くと、アレルヤは大きく息をついた。ほほが上気して、銀灰の瞳が潤んでいる。
 
 引き寄せると、素直に倒れこんできた。

「こんなの・・・初めて」

「これで、少しは分かったろ。詩の意味・・・」

 子供をあやすように、背中を撫でてやる。触れあっている互いの体温が心地よかった。

「今日の授業はここまでな」
 

>了  2009/1/21

   
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