NOVELS


南の魚 3



 月は西に傾き、風が出てきた。

 長く伸ばした前髪が風に揺れて、アレルヤの金と銀の目が覗く。

 アレルヤがオッドアイだということを、知る者はまだ少ない。

 異なる眼に宿る異なる人格のことも同様だ。ハレルヤは、アレルヤの最大の理解者であり、唯一の家

族だ。彼のことは、秘密にしておくことはできないし、するつもりもなかったが、人前では口にしない

ようにしていた。特にロックオンの前では。

 ロックオンに 一緒に「南の魚」の加護を受けようと言ってもらったのは、嬉しかった。

 ハレルヤ以外の誰かと運命を共有することなど、考えたことはなかったから。

 過酷な運命は、あの幼い日に決まってしまっていて、修正されることはないと思っていた。

(彼といると、胸の底があったかくなって満たされる気がするんだ。ハレルヤ)

(満たされる? 俺たちはいつも空腹だ。からっぽだ。だから、望むんだろ。お前は、ためらいながら

欲しいものは手に入れずにはいられないんだよ。強欲な、アレルヤ)

 ハレルヤの言うとおりだ。

 誰かを犠牲にして生きているというのに、その実感がない。まるで、手袋をした手で触れている

ような感触。ここにいるべきでないという違和感。自分を取り巻く虚ろな空間に阻まれて、微妙に

ズレる日常。自分は、その間隙に誰かを引き込むことを望んでいるのか、アレルヤ自身にもわから

ないのだ。

 星占い、読書、買い物、ハロウィン、クリスマス。見知らぬ花の香、雪の冷たさ、つないだ手の

温もり、キスの甘さ。

 ロックオンと過ごす日々は、どれも些細な喜びに満ちていた。箱の中で、夢にみた生活の1ページ。

手に入らないと思っていた物の欠片に触れるたび、少しづつ違和感は薄れていく。

(お前が、奴で空腹を満たすっていうんなら、俺はそれで構わねえぜ)
 
 半身の冷たい笑い声が頭に響いた。

『ソレスタルビーイングのお披露目の日が決まったわ』スメラギ・李・ノリエガの一言が夢の終わりを

告げた。

 武力介入。それは、再び手を血に染めることを意味していた。

 戦争の根絶という大義名分の下、再び人の命を奪うのか。満たされない思いが、人の死を踏み台にし

ないと言い切れるのか自信がない。

(彼を手に入れて、同じ過ちを繰り返さないでいられるだろうか、ハレルヤ)

(他人の事など構うな。生き残ることだけ考えろ、アレルヤ)

 ハレルヤの言葉に返事をしようして、人の気配に気がついた。

 背の高い人影に、頭の中の半身が舌打ちするのが聞こえた。



「ロックオン」

「アレルヤ、こんなところにいたのか。探したぜ」

 砂を踏む小さな音をさせて、影はゆっくりと近づいてきた。

 青白い月の光の下で見るロックオンは、栗色の髪も翡翠の瞳も色を失って、陰鬱に見えた。トーンを

抑えた声と疲れた表情。昼とはまるで違う印象に、アレルヤは戸惑いながらほっとする。

明るい太陽の下で輝くロックオンの笑顔は眩しくて、遠くからみるのが精いっぱいだった。しかし、月

の光の下でなら、もう少しじっくりと彼を見ることができる気がする。

 いつも明るいロックオンの沈んだ表情を訝る気持ちと、彼を眺めることができる喜びがないまぜにな

って、適当な言葉が出てこなかった。

「何か、御用ですか」
 
 何と言っていいのかわからず、つい事務的な返答をしてしまう。案の定、ロックオンは黙ってしまっ

た。打ち寄せる波の裾が、爪先を濡らす。風が変わり、長い前髪を巻き上げるように乱されて、アレル

ヤは、思わず片手で髪を押さえた。

「夜風は体に毒だ」

 ロックオンの指がアレルヤの左目が見えるように髪を梳く。そのまま、頬の温度を測るように、手の

甲が触れた。

「ここは、南の島ですよ。それに、僕は人より頑丈にできていますから」

「アレルヤ。俺は、お前の心配をすることもできないのか」

 添えられた手を外して離れようとしたが、そのまま抱き寄せられた。長い腕が絡みつくように胴に回

る。振りほどこうともがくが、形ばかりの抵抗に終わった。

「ロックオン。もう、僕には構わないで」

「構うなだって? そんな顔して避けられて、構わずにいられるか?」

 不機嫌な子供をあやすように、耳元で囁く声に心臓が高鳴り、頬に血が上った。

「ロックオン、酔っている?」

 赤くなった顔を見られたくなくて、肩に頬を押し付けると、ほのかにアルコールが香った。

 ロックオンは優しい。いつも、こうして気にかけてくれる。だから、勘違いしてしまわないようにし

なければならない。

「不安なのはわかる。俺たちは戻ることのできない道を歩き始めた。アレルヤ、迷うな。お前の迷いは

命とりになる」

「わかっています。僕たちマイスターは運命共同体だ。僕のミスが、皆に・・・」

「違う。俺が言っているのはそんなことじゃない」

 胸元から引きはがされ、正面から見据えられた。真剣な表情に憂鬱な影が落ちている。他のクルーに

は絶対にしない顔だ。自分はそれほど彼を失望させたのだろうか。

 ロックオンの手が、アレルヤの首に触れた。手袋をしていない指先は、なめらかで温かい。ゆっくり

と、両手が包み込むように回される。まるで首を絞めるような仕草だ。

「お前の判断は、いつも正しい。それなのにお前は自分を責めるんだな。なぜ、いつも自分を信用しな

い。何にそんなに怯えている?」
 
 アレルヤは肩の力を抜き、眼を閉じた。やはり、ロックオンは王子様ではなく罪を裁く者なのだ。で

も、彼に断罪されるなら、仕方ない。

「僕は、他人を犠牲にしてきた人でなしだから。軽蔑してくれていい。いっそ、この場で縊り殺してく

れていい。あなたに殺されるなら、本望だ」

 ゆっくりと眼を開け、昼間には向けることのできない視線を、今は闇にまぎれて向けた。視線をそら

さずに彼を見る。形のよい唇は笑ってはいない。

 ロックオンは、アレルヤの首に手をかけたまま、額に額を押し付けた。

「アレルヤ、俺はお前を失いたくない・・・」

 囁きが耳元をすり抜けて、一瞬思考が止まった。深い翡翠の瞳に囚われて、視線を外すことができな

い。頭に浮かんだ言葉が、唇からこぼれおちた。

「あなたの優しさに僕はふさわしくない。他人の生命を踏み台にして生き残ったくせに、僕はからっぽ

で、生きている実感がないんだ。話を聞いても、本を読んでもわからない。ただ、僕は生きる意味を知

らずに人を殺し、生き残る・・・」

「馬鹿だな。本読んで、生きる意味がわかるなら、苦労はしないぜ」

 ロックオンは、くすりと笑った。彼の指先が首筋から耳の後ろへ這ってきて、意識がそちらに向く。

「アレルヤ、考え過ぎるな。人生なんてもんは、理屈でなく心と体で感じるんだ。からっぽだなんて言

うな。足りないなら、俺が埋めてやる。俺が教えてやるよ」

 耳元で囁く声と柔らかいところをなでるように動く指先の動きに、熱が集中する。とくん、と心臓が

脈を打った。

 彼はアレルヤの罪を知らない。生存本能のまま行動する半身の存在を知らない。

 頭のなかで冷たく告げる声を打ち消すように、触れあっている部分は熱を持ち始める。アレルヤはロ

ックオンの背に回した手を放そうとした。

「僕は、弱い人間だから。あなたを、僕の運命に引き入れてはいけないんだ」

「俺だって弱いさ。でも、お前といると強くなれる気がするんだ。一人では出来なくても、二人なら運

命を変えられる。自分が弱いと思うなら、強くなればいい、アレルヤ。俺と一緒にいてくれ」

 優しいロックオン。その優しさに流されて溺れてしまいたい。

「ええ、ロックオン。それで、僕が強くなれるなら。僕もあなたを失いたくないよ」

「ほんとうに? うれしいこと言ってくれるんだな、アレルヤ」
 
 大きな掌が、アレルヤの耳を覆った。

 外部の音が遮断されて、とくとくと心臓の音ばかりが聞こえてくる。それは、自分の心臓の音なの

か、ロックオンの体を流れる血流なのか判別できないけれど、確かに生命の営みを刻んでいた。

 さっきまで青い月の光のなかで、すべては色を失っていた。

 だけど、今ここで聞いている音は温かくて、赤い血の色をしている。それは、失われていく命の色

ではない。

(今はまだ、生きている。あなたは許してくれるの?)
 

 アレルヤは、ロックオンの背に腕を回し、しなやかな筋肉のついた体を抱きしめた。

 眼を開けると、星空が見えた。

 フォーマルハウトの下で、抱き合うこの人を失いたくない。この人となら歪んでしまった運命を変え

ることができるだろうか。

 銀灰の瞳から溢れた涙が、頬を滑り落ちた。
 
 また泣き顔だ、とロックオンは笑うと、アレルヤの頭を抱えたまま、キスをした。

 いつの間にか、潮が満ちてきていて、足元を濡らしていた。

 空を仰ぐと、南の魚はまだ明るく瞬いていた。


>4へ